ようやく念願だったイ長調のワルツのグリップ表記式楽譜が手に入りました。私のリンクページに最近ご登場頂いたStammtischmusik Klosterneuburg - Volksmusik のフランツフックス氏にここで心底よりお礼申し上げます。なんとも驚いた事にこの曲は4つの別名を有していたのです。即ち、妖精ワルツ、締めのワルツ(ラストワルツ)、真夜中のワルツそしてプリーグルワルツとも呼ばれるのです。次に述べるハンスプリーグル氏の経歴などの文章は、フランツフックス氏より頂いたメールから抜粋したほぼ直訳です。

それを作曲した(私どもが簡単に言うところの書いた)のはハンスプリーグルです。私には正確なデータはわかりませんが彼が生きたのはほぼ1900年から1975年で、職業は靴屋でした。そして彼はほぼ1920年からほとんど彼の死に至るまでウィーンのフォークダンス人のために演奏し続けました。1955年から1975年まで私の父はプリーグル四重奏団と一緒に演奏しました。そのカルテットはハンスプリーグルがシュタイリッシェハーモニカ、先代フランツフックスがクラリネット、某バストゥルがバイオリン又はコントラバス(ヴィオラ・ダ・ガンバ)そして某ピカルディがコントラギターでした。私自身も1955年にウィーンのフーアマン通り(のダンスホール)でダンスを踊るために始めました。しかもそこでプリーグルと私の父のこの音楽グループは毎週土曜日にフォークダンスのために演奏し、おおよそ100から200人の人々が毎回そこで踊りました。その後1963年に私は結婚し、もはや規則的に通う時間がなくなりました。しかしその後フーアマン通りのそのダンスホールも閉鎖され、短時間(ウィーン)16区内に移転しましたが、私は一度もそこへは行かずにカールヘッケルのこのダンスグループはじきにやめてしまいました。その後なおプリーグルカルテットはほぼ1975年までは、即ち共演者が年をとり過ぎてしまうまでは再三フォークダンスの祭典やあるいは種々のダンスグループで演奏しました。

 厳密に言えば私は伝説を知っているわけではありません。私自身そのためにダンスを習いましたし、プリーグルはそれを1955年にすでに演奏し、それもすべてのダンスの夕べで(もちろんラストダンスとしての)締めのワルツとして演奏しました。

 それにプリーグルは大概ようやく1955年以後に多くの別の曲を書きましたが詳しくは私は知りません。まさしく関係者は既に皆亡くなって久しくなります。私共は若干のこれらの曲を私の音楽グループで演奏し、私はプリーグルの手書きの多くの他の曲を複写してあります。

 前のメールでハンスプリーグルの経歴においてはただうろ覚えでもちろん的外れに覚えていました。彼は1904年3月23日にウィーンで生まれ、1922年以来1983年まで彼はウィーンでフォークダンスのために演奏しました。その後彼は1986年に亡くなりました。従って私の父と彼は約1955年から1983年までほぼ28年間にわたって一緒に演奏したことになります。

(ichiの質問メール) ところで私にはまだ何故イ長調のワルツを妖精ワルツと言うのかよくわかりません。妖精とは天使とかあるいはそんな妖精のように美しいメロディーだから?誰がそのように呼んだのですか?だけどそれはまさしくぴったりですね!

 妖精ワルツとはプリーグル自身が本来このワルツに与えた名称でした。しかし彼はその後常にこの曲をイ長調のワルツと呼びました。私共の音楽ではしばしば夢想曲名があります。それはほとんど何も意味しないのですが美しく響きます。けれど勿論まさしくこのワルツは妖精のように美しいメロディーを有しています。

BlondesMaedchen金髪の娘(ハンスプリーグル作曲)へのリンク